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人の価値は所有物で決めている人達へ〜上東久祥

僕は整理屋だ。僕が呼ばれる家のほとんどがモノに溢れている。それは世俗的にいう裕福な家もそうでない家も同じだ。モノに支配されてしまったかのような家。そしてモノを持つことが人生の幸福度を図っているかのようだ。しかしね。僕を呼ぶような家は幸福とはかけ離れているんだ。家がモノで埋まっていて幸福なんてありえない。

人は幼い頃に何も持っていないことは、人生の上で成功していないという教えを受ける。幼少の頃は貧乏で欲しいものは手に入らず、青年期に頑張り成功を手に入れると言ったサクセスストリーだ。そもそも、貧乏と成功を結びつけること事態が間違えている。苦労や努力と貧乏は別物だ。

幼少の頃は、おもちゃなどをどれくらい持っているかに始まり、社会的価値(コミニティーでの優位)があるか、他者と比べた基準で自己評価をするようになる。

自己評価は所有物で評価され、自分の価値が所有物で測られ、それを持たない自分は社会順位の下と思ってしまうのである。そして、おとなになったあなたは、もう弾くことのないピアノ、縫うことのないミシン、使い切れない程のタッパに食器、2度と着ることのない着物に洋服。住むには大きすぎる不動産、老朽化した住まいを持ち続ける。

これはあなたが心も身体もモノに支配され、自分の価値も所有物に決められていると僕には見える。

資本主義優先で成り立ってきた日本。戦後なにもない時から消費することが美徳とされ、次から次へと新しいモノをシャワーのように浴び続けてきた日本人。

人の体と心の持ちようが長年の調査や研究で解明されてきている。自分の欲のままに行動する。食べたいモノを食べ、買いたいモノを買うといった直接的な欲求を満たすような満足度を得ても健康にプラスにならない。誰かのために役に立つ時の満足度は健康になることがわかってきているのだ。

僕はこの行き過ぎた消費社会で生きる事は不幸に思える。そして僕は所有物が多い人ほど不憫に思う。多くの人は、所有権や所有物をお金で手に入れていると錯覚している。モノをお金で買って、手に入れていると単純な思考を優先させていないだろうか? あなたは、命と言う自分の時間、もしくは配偶者の時間を削り犠牲にした時間で得たお金で何かを買っているんだ。モノは手に入れたらそこで満足せずに次の消費するモノを探す。

僕が遺品整理で見てきた世界の教訓は、「モノを得る事は何か失いうと共にトラブルや苦労がともなう。モノを失い片づける時はトラブルを引き起こす」ということだ。今からでも遅くはない、まず部屋の片づけ整理から始めること。片づけ終わった時には素の自分を発見し、自分のありかたを見つけ、自分に満足するだろう。僕はそんな人達をたくさん見てきた。

僕は整理屋、一人が大変ならお手伝いをしよう。今まで大切にしてきたモノを手放せるよう、次の世代に引き渡すお手伝いをしていきたい。

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